Yarakuzen
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2015 年 6月 29 日

【コラム】不可能な翻訳

こんにちは!八楽の佐藤です。

みなさん、洋楽等の歌詞和訳を見て、「これ、ちょっと変!」と感じたことはありませんか?
そもそも、ある言語で表現された歌や小説を、他の言語で表現することは可能なのでしょうか?

今回は、そんな「翻訳の不可能性」についての記事を紹介します。


翻訳不能

著者:Lira Tychinina

翻訳不能―――そんなことがあり得るのでしょうか?これはプロの翻訳家だけに向けた質問ではありません。翻訳とは、部分的には正しいものです。しかしながら、何かを翻訳しようとする全ての努力は失敗への第一歩である、と言う人もいます。このような悲観論は、国民意識形成における言語の役割を誇張して説明しました。これはフンボルト学派に近い立場です。フンボルト学派では元来、人間が他者に知覚されることによって全世界が創造されていく際の決定要素として、言語の重要性を強調してきました。哲学者はこのアプローチを「理想主義の実証哲学」と呼び、この考え方において言語は、生活や文化的経験の反映された、その言語を使用する人々の考え方の特徴だと考えられています。

もちろん私たちはみな同じ人間ですので、国籍の差やそれに起因する行動パターンの違いがあろうとも、ある状況に対して類似の感情を感じたり行動を起こしたりすることは多いでしょう。しかしながら、このことを証明するような大規模な心理学的実験/調査は行われていません。そのような類似性が我々の間に存在していることは、海外の学者の成果を全世界の科学が利用しているという事実によって証明されているようなものだからです。人間の思考というものは、ある一つの枠組みに従って動くものであり、これがフンボルト学派の議論される理由なのです。

しかしながら、翻訳不能という現象は確かに存在します。最も難しいのは、詩およびフィクションの翻訳です。一語一語、いかにも翻訳されました、というような文体の物語を読むというのは、探偵小説を逆から読んでいるようなもので、面白いものではありません。したがって、そのような翻訳スタイルを用いるのが主流である時代の翻訳家たちは大抵、いわゆる「外国小説」を読むのが好きな人達のために物語を翻訳することになります。本当に腕のある翻訳者のみが、洒落や回文、押韻の含まれる文やアナグラムなどを翻訳することができるのです。個人的には、詩を本当の意味で翻訳できるのは詩人のみであると考えています。

untranslatability
ある言葉に対応する表現が翻訳先の言語に無い場合、どうすればいいのか?-翻訳科学には、これを解決するためのテクニックが沢山あります。主なものを少し紹介しましょう。

「適応」は、翻訳者の自由裁量が最も大きくなるテクニックです。このテクニックを使う場合、ある言語における全ての言葉は、翻訳先の言語にある類似の表現と全て置き換えられることになります。

「借用」は、元の言語に存在する表現をそのまま翻訳先の言語で使うという翻訳プロセスです。「翻字」は、ある言語で表現された文字列を、異なるアルファベット表記システムを用いる他の言語で表現したい場合に、翻訳先の表記システムから対応する文字を探してそれを用いる、という方法です。

「翻訳借用」は、翻訳したい表現を個々の要素に分割し、その要素ごとに、意味を翻訳先の言語で表現していくという方法です。

「補償」とは、ある言葉を他の言語に変えようとする際、もしそれを元の言語内と同じ形式で表現できないとしても、その本来の言葉の意味が持つ効果を翻訳先の言葉で再構成する、という翻訳方法です。翻訳の一致性というものは、常に部分的なものなのです。

「迂言法」は、翻訳したい言葉を、翻訳先言語に存在する複数の言葉によって間接的に表現するという方法です。

この他に、翻訳の限界や文化的背景についてなど、翻訳者が付加的に情報を付け加える方法もあります。

ヤラクゼンによる翻訳


いかがでしたでしょうか?最近は日本の漫画・アニメが海外で人気ですが、登場キャラクターの名前が、その国で覚えられやすい音に置き換えられることも多いようです。このような固有名詞の取り扱いもまた、ある言語から別の言語に置き換える際に難しいものごとの一つと言えるでしょう。