Yarakuzen
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2015 年 7月 02 日

【コラム】文学の翻訳=執筆か?

こんにちは!八楽の佐藤です。

みなさん、外国小説の翻訳を読むことや、日本の小説の外国語訳を読むことはありますか?
今回のテーマは、小説の翻訳を執筆とみなすことができるのかについてです。


文学を専門に扱う翻訳家を、執筆家と見なすことはできるのか

著者:Milan Petrovic

文学専門の翻訳家とはどういう人たちなのか、また、それはどんな仕事なのかについて、ある程度のことは知られているだろうと仮定してお話致します---あなたは今まで、詩や短編、また小説を翻訳するためにどのような仕事が必要とされているのか、そして出来上がったものがどのように評価されるのか、考えたことはありますか?おそらく「他の翻訳家と同じようなことをやるんじゃないかな?」と考えておられるのでは?だとしたら、それは間違いです。少なくともこれが、文学を専門とする翻訳家を含んだ、多くの、真面目な翻訳家たちの意見です。

文学を専門にするということは、必ずしも、「ある言葉を、意味が通じて響きの良い言葉に翻訳し、他グループの人がわかるようにする」というバイリンガル的なスキルに熟達しているということではありません。それ以上のことです。文学専門の翻訳者の特異性は、自らの母語と外国語に関するスキルを駆使するという点とは別のところにあります。それは、著者の生活スタイルや仕事、執筆した時代などの情報を、併せて現代の読者に伝えることです。

50年、いや100年前の著者による作品について考えてみてください。あなたは恐らくその時代には生まれていないでしょうし、あなたの両親でさえ、もしかしたら生まれていないかもしれません。その時代について耳にしたり目にしたりしたいくつかの物事を除いては、当時の社会状況などあなたにはわからないのです。そんな状態であなたは、当時の環境や美学、人々の考え方を現代の読者に伝えなければなりません。そんな時、語感を良くすることは、意味を伝えることより重要になります。ちょっととっつきにくい話題でしょうか?---さて、ではこの複雑な話をほぐしていくことにしましょう。

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著者には各自それぞれ、自分のスタイルや言葉の選び方があります。これが、著者の真の意図や感情を理解するためのヒントになるのです。著者の言葉に隠された真実は、文などの中から見つけ出すことができます。もしその著者が語順を決めるのにあまりにも時間をかけすぎていると思われる場合、その人を著者と呼ぶことはできません。真実とは瞬間的なものです。もしあなたが歌うことや書くこと、読むことについて考えているのならば、その次の瞬間にはもう、その考えはどこかにとんでしまっているでしょう。翻訳家たちはこれと似たような仕事をしています。彼らは元の言葉を、読者にとって魅力的な言葉に置き換えているのです。外から見ると、翻訳家が適切な言葉や文章スタイルを選ぶことに膨大な時間をかけていることは、わかりづらいようですが。このような意味で、翻訳とは執筆業務だと言えるのです。読者が自然だと感じるような言葉の響きを、その読者の母語で表現しているのです。著者の側が、「元あった長い文章を細かく分けたり全く違う言葉に変えたりして翻訳する」という翻訳家の仕事を馬鹿らしいと言ったとしても、私は驚きません。しかしこれこそがまさに、翻訳家を執筆家せしめている部分なのです!元の言葉を読者目線の言葉に置き換え、もう一方で著者の意図を読み解く---言葉を変えられたことに対する著者の怒りや嘲りと、逐語的な訳に対する読者からの嘲笑とのバランスをとり、それらをまるでレゴブロックで橋渡しするようにバランスを取るのが、翻訳家の行っていることなのです。文章スタイルや言葉の響きを伝えるということは、単に元の文の意味を伝えることではありません。

著者の心を「読む」ことについて言えば、翻訳家が、ある作品についてその著者の意図を完璧に把握できるようなヒントを全て手に入れられることはめったにありません。しかも翻訳家は、ヒントの一部である「著者の使用した特定の言葉」のみからその意図を想定するということをしてはならないのです。きっととても意外に思われるでしょう。ごくわずかの人々しか、この見方には賛成しないかもしれません。でもちょっと待ってください。翻訳は執筆業であるという証拠は、他にもあります。著者が書いたものや、その著者が意味したことについて考えてみましょう。翻訳家が著者の意図を誤解することは大いに有り得るということ、そして勝手な憶測で翻訳を行ってはならないということを、翻訳家は覚えておく必要があります。翻訳家はその著者の過去の作品や態度などを心に永久的に留めておき、それらの背景の上に自らの翻訳を組み立てていかなければなりません。これが、翻訳が執筆と密接に関わっているということ、そして翻訳家が原作について深く思索を巡らせていることに対する、もう一つの理由です。

最後にお話ししておきたいのは、著作権に関する問題についてです。著作権はオリジナルであることに基づいて承認されます。誰かのコピーでないか、または単に今までと違ったアイディアであれば、それはもう全て、その作者に知的財産権があるのです。そのため著者には、ある種の特権、ロイヤルティもしくは保護を受ける権利が与えられます。同じことが翻訳にもあてはまります。同じ文を翻訳しても翻訳家によってできるものが異なるため、結果として、それぞれの翻訳家が独自の翻訳文を生み出すことになるからです。翻訳は、その翻訳家の自由な表現であると捉えられるので、原作に対する著者の権利と同じように、翻訳家にもまた、その翻訳文に対する権利が与えられます。こうして翻訳されたものは、原作についての信頼できる「オリジナル」作品として世に出るのです。

ヤラクゼンによる翻訳


いかがでしたか。例えばドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』はそれこそ100年以上前に書かれた作品ですが、現代の日本語訳で読んでも感動できる作品だと思います。ただ個人的 に思うのは、せっかく良い翻訳でも、読み手側がその時代背景や文化を理解していないと、伝わってくるものが減ってしまうということです。例えばロシア小説によく出てくる「木の枝が雪の重みで垂れる」という表現、私がこれを実際に理解したのは、モスクワで「雪の重みで垂れた枝」を実際に目にした時でした。原作の国に訪れてみるというのも、外国小説を読む一つの方法かもしれませんね。